感想

先のポリコレに関する質問者です。

ask.fm

ご回答有難うございました。

いくつかの点で認識と見解の不一致がありますが、Askで議論するわけにもいきませんので、取急ぎお礼と簡単な感想のみという形で失礼します。以下の通りです。

○→同意、×→不同意、△→どちらともいえない、?→不明、…→省略の意です。

 

・むしろポリティカルコレクトネスやアイデンティティポリティクスこそ、おそらく単に自分たちが自由主義の枠を超えて振る舞おうとする
→△、例えば誰の、どんな振舞いのことですか?また、自由主義の枠組が具体的にどこからどこまでで、それが制度(主として法)によってどのように守られているか、また制度の問題とは別に、あるいは相関関係の上で、貴方がなぜそれを守らなければならないと考えているかまで話を拡げるとなると、なかなか一筋縄ではいかない話だろうと思います。

 

・抑圧の名に値しないものを抑圧と呼ぼうとしている
→?、差別だ!と殊更に言いたてる者の言うことが「そんなこと気にする方がおかしい」という意味なのか、単に貴方にとって抑圧ではないという意味なのか、その両方なのか、わかりません。後者だとすれば、そも貴方にとっては抑圧ではないのだから、「ポリコレ」それ自体を貴方の考える社会問題ないし社会悪として訴えるべきではないですか。

 

・「統計」のいくつかに関しても…結果の不平等を示すだけで機会の不平等を示すものではないと思います
→×、いくつかは機会の不平等を示すものです。よく引き合いに出される肌の色、国籍、あるいは性別によって、例えば、就職の際に面接に落ちた人数の統計であれば、それは機会の不平等を示すものでしょうし、これが単に人種・国籍・性別別の就労者数を示すものであれば、それは結果の不平等を示すものと言え、両者は明確に区分可能です。そして、両者を混同したデータを私は見たことがありません。

 

・結近代資本主義社会が市場原理に基づく自由競争を認めるものである
→○、仰る通りです。

 

・市場原理に基づく自由競争を認めるものである以上、個人の資質や努力に応じて結果の格差が生じるのは当然ですし正当です
→△、私は金本位制崩壊以後の資本主義をそれ以前の資本主義と区別する立場です。区別しないなら○、後者の場合、二世代、三世代に渡り格差が温存されるため、機会の均等は実質的にないものと考えています。


ポリティカルコレクトネスやアイデンティティポリティクスの類は、近代資本主義社会が達成すべき機会平等と結果平等をすり替えてしまい
→?、実際に「機会平等と結果平等をすり替え」るような論法をどの論者が行ったのか、またその「すり替え」が意図的なものだったか否かを貴方がどのように判断されたのか、わかりません。

 

社会的多数派や強者に対する不合理な攻撃性に転じてしまいがち
→△、ツイレディ等そうした事例は私もいくつか見たことがありますが、そういったケースの多寡がわかりません。仮に少ない場合、「~がち」とは言えないと思います。

 

・結果の平等を達成するためなら社会的多数派や強者を不当に評価したり、不当な不利益を強制したりしても構わないということだろうと感じます
→△、上に同じ。少なくとも私は攻撃していませんし、一般的にそうした事例が多いのか少ないのかわかりません。


差別主義の単なる裏返しと言われても仕方ないこれら不公平・不公正は
→○、同様の認識です。何らかの属性によって誰かの発言の正しさが担保されるわけではありません。「マイノリティ」であることそれ自体に意味があるのはその属性を持つことで、個別具体的な不便を生ずるときだけです。ですから、どのような意味で「マイノリティ」なのか、性的なマイノリティ、人種的なマイノリティ…その他諸々、微細なカテゴライズが、「彼ら」(または「私たち」)にとって、その主張を訴えるために、まずは必要だろうと考えています。そして、どういった障害・不便・不利益が生じているのかをひとまず聞いた上で、それらが彼らの持つ属性に由来するものだと客観的に判断された場合、やはり個別具体的な方策が(行政機関だけでなく)社会の成員全員によって、考えられるべきだと思います。しかし、彼らの経済的強者、あるいは社会的権力者に向けられた怒り、愚痴、または悲嘆の声は、その内容の正当・不当の判断を含め、順序としては生得的な属性→後天的な属性の順で、「マジョリティ」(「マイノリティ」同様に個別のカテゴライズが必要でしょう)より優先的に聞かれるべきだと思います。彼らの声はそれが積極的に聞かれない限り、多くの人々には無視され、結果として彼らの権利は永遠に自らの力で回復され得ないからです。ただし、あくまで「優先的に聞かれるべき」なのであって、そのことと発言内容の正当性とは別の問題です。

 

・冷ややかな「ポストモダニスト」たちに嘲笑されてしまうだけではなく…熱心な近代主義者等からも大いに批判されてしまうように思われます
→△、扇情的なレトリックはしばしば話者の傾きを顕にすることがあるように思います。これこそが政治的な問題です。

 

・特に性的消費論者や文化盗用論者が抱えている最大の問題は、…性的消費や文化盗用といった語を明確に定義できたとしても…それらがなぜ社会問題だと言えるのかわからない
→△、資本主義下では性に限らずあらゆるものは消費され商品になり得ますし、伝統主義の立場に立たないのであれば、文化の固有性など無意味ですから盗用も何もない、という主張は一つの立場として理解することはできます。
しかし、この点について市場原理の性質を良いものと言えるかどうかという問題は別にありますし、そもそも資本主義が倫理や道徳の価値決定をするわけではないのだから、諸々の社会問題を「資本主義下での」といった前提を踏まえ条件つきで論を進めるべきではないでしょうか。


これは権力勾配や非対称性といった謎めいた造語についても該当します。
→×、該当しないと思います。「asymmetry」は19世紀以降、政治の基本的な手段であり、その為のコンセプトです。「権力勾配」や「非対称性」がその訳語として相応しいかどうかはまた別の問題として。

 

性や文化が市場原理に基づいて取り扱われることは決して悪ではない
→×、人間より金の方が偉い訳ではないのだから、もし金によって人間が不利益を被ることがあるとしたら、それは悪いことだと思います。

 

・そこで勝者と敗者が生じることそれ自体も決して悪ではない
→△、ゲームの法則、またその法則に則った優勝劣敗の認識としては正しいと思いますが、資本主義下における物理的な損益がその中に生きる人間の具体的な生死の問題まで及ぶ場合、この法則それ自体を疑うべきであり、必要であれば覆すべきだと考えます。

 

そういった若干の意見・認識の不一致を除き、植民地主義に関わる文化、歴史などを広範囲に取り扱う批評や人種、民族、性的指向、障害などについて考察することが「右翼」の跳躍を許した、という一般的に真逆だと思われているものを結びつける独自の視点は、純粋に素晴らしいと思いました。